弦楽器シタール・太鼓タブラについて
1:シタール・タブラ近代史
ビートルズのジョージハリスンも愛奏したことで世界的に知られるシタールは、1945年にインドが民主共和国としてイギリスから独立する迄は、北インドのイスラム王朝と、中部インドのヒンドゥー諸王国の宮廷で演奏されていた古典音楽の楽器でした。宮廷が廃止されたことで多数の宮廷楽師と、楽器製作者たちは存亡の危機を迎えましたが、後に「世界で最も映画を生産する国」としてギネスにも載っていると言われる近代インド映画音楽によって多くの楽師が救われました。しかし、その後映画音楽が急速に西洋音楽化した1960年代後半に再び危機を迎えます。それを救ったのがビートルズであり、インドを訪れインド音楽に魅せられた欧米のヒッピーやバックパッカーでした。
面白いことに1960年代迄は、インドのあらゆる楽器が、「専用ケース」は愚か「布バッグ」さえも無かったのです。何故ならば、シタールやタブラを習う生徒は、自宅練習用は家に置きっぱなしでしたし、師匠の家には生徒用があったからです。極稀に全国あちこちや海外に赴くプロ演奏者のみが、ケースを特注していた位で、同じ町の中を運ぶ時などは、インド更紗に包んで抱えて運んだのでした。
その常識が、欧米のヒッピーやバックパッカーがシタール、タブラを買い求めたことで、大変革した訳です。いずれも後手後手の試行錯誤でしたが、1970年代から今日に至るまで、何度もの段階を経て様々なケースが開発されました。当講座の講師を賜りました私若林忠宏は、1972年にシタールと出逢いましたので、今でも「全ての段階のシタールとタブラのケース」を持っています。
ところが2010年以降の世界的な「アンチ・グローバルムード」によって、世界中で「伝統文化の再評価」がなされるようになって、2020年代以降は、若手の演奏者もかなり増えて来たのです。しかしながら、日本の三味線でも同じことが見られますが、世界的に伝統民族楽器は「超越技巧と派手さ」ばかりが目立ち、その陰で失われて行く古曲や「仕込みが大変な割に一般聴衆にウケ難い技術や内容」は、日々どんどん廃れているのも現状です。
2:シタール・タブラを学ぶにあたって
①楽器のメンテナンスは楽じゃない
いずれも元々は、一国の幾つかの地方でのみ用いられていたローカルな民族楽器だったギターやヴァイオリン、マンドリン、ウクレレは、近現代に「汎世界的な楽器」に成長しました。「汎世界的な楽器」とは、単に「世界中の誰もが知っている」ということではなく、「それらの楽器は、どんな音楽をも演奏出来るし、されている」ということです。
逆に、名前は良く知られた楽器で、いまだに「もっぱら本来の音楽のみを演奏している」のは、バンジョー、アルペン・ホルン、アルプスのツィター、スコットランドのバグパイプなどでしょうか。
その意味では、シタール(及び新声楽カヤールや舞踊)の相棒として宮廷音楽時代から活躍した太鼓タブラは、その「人懐っこい音色と超絶技巧」のお陰で、かなり「様々な音楽で活躍」しており、最早「汎世界的な楽器」になっていると言えるかも知れません。
私は、1978年から1999年、都下吉祥寺で日本初の民族音楽専門ライヴスポットを運営し、毎週インド音楽ライヴや世界中の民族音楽の定期ライヴを行って来て、月に数回、全国あちこちでも演奏しましたが、店の外では圧倒的に「洋楽とのコラボ」と「洋楽系のスタジオ録音」のお仕事が多かったのです。その際に痛感したのは、シタール・タブラの「音量の乏しさ」と「メンテナンスの大変さ」でした。シタールの「主弦7本と13本の共鳴弦」は、湿度温度で狂い易く、生山羊皮に、湿気に弱い米の糊を混ぜた金属粉の重りを貼るタブラはより一層湿度温度に左右されます。そのような楽器でスティックで強打するドラムセットやエレキギターなどと共演するのは至難の業です。それでもタブラはまだその音色が世界中の音楽に適応しますが、シタールは、どうしても「インドっぽい」と思われがちで、近年では「ギター式糸巻で、内臓マイク」のシタールも登場していますが、将来に渡って「汎世界的楽器」には、完全にはならないかも知れません。
②「汎世界的な演奏」を試みるか?「伝統志向:であるべきか?
逆に言うと、「世界中の民族楽器それぞれが、『最もその魅力を発揮0擦る音楽』は、やはり伝統音楽であろう」という事実は揺らぎないことなのかも知れません。
若林忠宏は、ある側面では「現地インドの演奏家の主流より遥かに伝統志向」です。それは、若林が最終的に出逢ったシタール、同じくインドを代表する弦楽器サロードの師匠が、インド最古の伝統流派の家元だったからでもあります。他方若林忠宏が学んだ太鼓タブラは「インド主流6大流派と亜流2派の8派全てを学んだ」という日本人、外国人のみならず現地インド人も稀な経験を持っています。これは、古来日本の風習のみならず、インドでも本来御法度なことです、「あちこちに顔を出しているような奴に本気で奥義を教えてやるもんか」となって当然ですが「インド音楽の理解の為に」とシタール、サロードの師匠が実に玄人ウケする巨匠だったお陰で、学ぶことが出来たのです。勿論、はじめ門前払いだった師匠も居ます。が、仲介者のタブラ職人が頭を下げてくれたことで学ぶことが出来るや、むしろ他派の師匠と張り合うかのように「あそこではこんな奥義は学べなかったろ?」となったのです。
他方若林忠宏は、「伝統派」の最も逆のスタイル。「欧米音楽や汎世界的音楽」どころか、はっきり言って「インチキ・インド音楽」とも言える「1960年代後半の欧米ジャズ・ロック界の『ラーガ・ロック』『ラーガ・ジャズ』の研究者」でもあるのです。ビートルズのジョージ・ハリソンのみならず、ドノヴァン、トラフィック、ヤードバーズからジェフ・ベックに至る「サイケデリック・ラーガ・ロック」や、ガボール・サボ、ドン・チェリーなどの「ラーガ・ジャズ」を完コピして何十回もライヴで再現しました。前述のように「日本では洋楽とのコラボやスタジオワークが多かった」ことも含めて、「最も伝統的な反面、最もアバンギャルドな活動」を二足草鞋で50年、やって来たのです。思えば「二足の草鞋」と言う言葉もお不思議な話で、左右合計四つのことなのか? 左右でふたつのことなのか? 後者だとしたら当たり前の話です。片足伝統・他方でアバンギャルドで、二足歩行出来たと考えています。逆に言うと「古典演奏者が中途半端に大衆迎合する」「基礎が生っていない洋楽系の民族楽器演奏者が伝統音楽を装う」というのは、最も嫌い、避けて来たとも言えます。
③アマチュア?セミプロ?それともプロ志向?
この万国永遠のテーマに於いて、私にとって大変印象的な出来事は、1980年代~90年代のキューバの音楽についてです。基本1960年代からキューバでは、「全てのプロは国家公務員」でしたので、正直言って「文化工作団」的な「心が通じない音楽」が目立っていました。レコード会社も当然国営ですから、「社会主義賛美」のような歌詞だったりで辟易としました。ところが、流石のキューバ人? 1990年代初頭から、なんと国営レコード会社がアマチュアバンドのレコードを出し始めたのです。物凄く素晴らしい! そう1960年代から、ハバナやマタンサス、サンテッィアーゴの街角では、ずっと昔ながらの熱い音楽がアマチュアによって奏でられ続けていたのでした。そして、自分も曲がりなりにも高校1年の時にナベプロ系の事務所と契約しプロになった歴史も踏まえて考えると。「最も純粋で崇高な音楽はアマチュアに在り!」というのがある種の結論なのです。日本もかつては全国で、民謡歌手がそうでした。しかし1970年代の全国区的な「民謡ブーム」で胡散臭いプロが多く誕生してしまい。一説には「日本の民謡は滅んだ」とさえ言われました。
つまり、一般では「アマチュアはレベルが低い」「プロはレベルが高い」と全てのジャンルに通じる常識のように思われがちですが。上記のように、「芸術の分野」では、逆に「アマチュアの方が純粋な探究心を追求できる」ということであり、「プロは大衆迎合しないと生活できない」という本質もはらんでいるということなのです。
若林忠宏は、1978年~2009年東京にて、数年重なる時期を持ち、2007年~福岡にて、民族音楽教室を運営して来ましたが。いずれの時代も「基礎は現地最高レベル」を貫いてきました。故に、現地の「観光客向けのレッスン」より遥かに厳しく・正確に・丁寧に、基礎(構え方~手の形・動かし方・力の入れ具合)を教えてきました。延べ数百人に及ぶ受講生さんの中には「別に先々プロになる訳じゃないんだから、適当なところで基礎を切り上げて、もっと楽しいことを教えろよ」と言った人は数名居ました。
皆さんは「ルール」について「子供と大人のどっちが厳格?」と問われてドンんあお答えをイメージしますか?「子供は好き勝手・我儘をやりたいし、大人の言うことに逆らいがちだ」「大人は分別が分かるし、他者への気遣いもあるから」「当然『子供はルールを守りたがらない』『大人はルールを守ってこそだ』に決まっている」となるのでは?
正解は「真逆」です。こどもは「ルールを守らないと遊びがつまらなくなる」「どらえもん」のジャイアンのような子は仲間外れになってしまうのです。(無論ジャイアンにも良いところはありますが) 逆に大人は「内心ではしぶしぶ」だったり、「他者が見ていなければ良いだろう」と或る種不純です。
音楽や楽器演奏を学んだ先々が「楽しみの為だけ」であろうと「生活の一部」であろうと「セミプロを目指す」「プロを目指す」「自己創造と発信の基本」であろうと。「基本」がしっかりしていないと「続かない」「飽きてしまう」訳なのです。